その日、ブダナシャは旅をしなかった。長いあいだ人の往来も絶えた石橋に腰を下ろし、初めて、これまで一度も考えようとしなかった問いを胸に抱いたのである――「帰るべき場所」とは、まだ見ぬ彼方に存在するものではなく、すでに自分が捨て去り、振り返ることさえ恐れていた場所なのではないか、と。夕陽が荒野の果てへ沈みかけた頃、一羽の黒烏が彼女の肩へ舞い降りた。その脚には、宛名の記されていない鉄片が結びつけられていた。そこには古い文字で、ただ四字だけが刻まれていた――「大悪魔、不達那希亞」。
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その文字を目にした瞬間、彼女の表情が初めて完全に止まった。それは人々が彼女を罵るために口にする「悪魔」という呼称でもなければ、彼女自身が旅の途中で名乗る「天使」という言葉でもない。ブダナシャという名より遥か以前から存在していた、ひどく重い呼び名であった。鉄片を握り締めた指先が、僅かに震える。やがて彼女は、誰にも語ったことのない記憶を思い出した。かつて彼女は、自分自身の真名を、ある墓の中へ埋めたのだった。
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その墓地は、北方の人跡未踏に近い黒森の奥にあった。彼女は三日間、魔術を用いることも、翼を広げることもなく、荒れ果てた古道を歩き続けた。四日目の朝、枯れた蔓草の向こうに、二つに割れた墓碑が姿を現した。そこには死者の名は刻まれておらず、風雨によってほとんど消えかけた一文だけが残されていた――「どうか、不達那希亞が永遠に帰ってきませんように」。彼女は長いこと、その言葉を見つめていた。そして、それが呪詛ではなく、かつて誰かが彼女に向けた最後の願いであったことを理解した。
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墓碑の背後には、半ば崩壊した古い家があった。そこに残されていたのは、もはや持ち主の生活の痕跡さえ失った幾つかの品々――銅製の灯火、子供用の木剣、火に焼かれた数冊の書物、そして黄ばんだ一枚の紙であった。ブダナシャがその紙を拾い上げたとき、そこに記された筆跡が自分自身のものであることに気づいた。紙には、彼女がまったく記憶していない過去が記録されていた。彼女はかつて、ここで暮らしていたのである。旅人としてでも、誰かを救う者としてでもなく、ひとつの家族に拾われた子供として。
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さらに探し続けた彼女は、薄い一冊の手記を見つけた。最初の頁にはこう記されていた。「あの子は自分を悪魔だと言った。だから私たちは、それを信じた。いつか自分はここを去るとも言った。だから、それも信じた。けれど、あの子は一度も語らなかった。悪魔もまた、恐怖するのだということを」。頁を繰るほどに筆跡は乱れ、幼い彼女の激情と制御不能、そして初めて家の者を傷つけた日のことが綴られていた。あの日、恐怖に呑まれた彼女は本来の悪魔の姿へ変じ、その炎によって家を焼き、最も失いたくなかった者を死なせてしまったのだった。
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ブダナシャは泣かなかった。ただ黒く焦げた床に座り、手記を膝の上に置いたまま、一頁ずつ最後まで読み通した。それまで彼女が「救済」と呼んできた幾多の行為に、初めて別の意味が差し込んだ。数え切れぬほどの見知らぬ者を救ってきたのは、自分が誰よりも救うことを知っていたからではない。自分が救えなかった、ただ一人の者を、心の底で探し続けていたのではないか。彼女は幾千の他人を助けながら、ただ一度も、本当の意味で自らの罪と向き合ってはいなかった。
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そのとき、家の外から杖の音が聞こえた。白髪の老人が一人、静かに中へ入ってくる。彼は跪きもしなければ、恐れもしなかった。ただ手記を見つめ、「ようやく帰ってきたのだな」と言った。ブダナシャが自分を覚えているのかと尋ねると、老人は当然だと答えた。あの火事のあと、人々は彼女が死んだと思った。しかし老人だけは知っていた。彼女が生き延び、その日を境に、本当の名を持つことを自ら禁じたのだということを。
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「では、ブダナシャというのは、お前の本当の名ではないのだな」と老人は尋ねた。彼女はしばらく沈黙したのち、首を横に振った。その名は後になって自分自身に与えたものだった。本当の名を呼べば、過去そのものが追いついてくるように思えたからである。老人は彼女に過去を受け入れろとは言わなかった。ただ鉄片を彼女の前へ置いた。「名そのものが枷なのではない。お前を縛っているのは、自分にはもう、どこへ帰る資格もないと思い込んでいることだ」。
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ブダナシャは、初めて何も言い返さなかった。かつて炎に包まれた土地を見つめながら、彼女は自分が長い年月にわたって同じ過ちを繰り返していたことを悟った。「帰る」ということを、どこかの場所に再び受け入れてもらうことだと思っていたのである。しかし、家というものの意味は、必ずしも赦しだけではない。過ちを犯した者が、自分は確かに間違えたのだと認めることさえ許される場所もまた、帰るという行為の一部なのだ。
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夕暮れ、彼女は森を出た。翼を広げることも、魔術に頼ることもなく、ただ一人の人間と同じように、道を歩いた。かなり遠ざかってから、彼女は一度だけ振り返り、黒い森へ向けて、かつて土中へ葬った名を静かに口にした。「不達那希亞」。天地が震えることも、奇跡が起こることもなかった。それでも彼女には分かっていた。今日からその名は墓ではない。それは、自分が背負って歩いてゆくことを選んだ過去なのだ。
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