鉄扉の彼方に待ち受けていたものは、王国の秘宝でもなければ、滅び去った者たちの亡霊でもなかった。そこに在ったのは、ただ一条の細長き石室であった。窓はなく、外界へ通じる裂け目すらない。にもかかわらず、その床には塵ひとつ積もっていなかった。まるでこの場所だけが、三百年という歳月から静かに切り離され、時間の流転そのものを拒み続けてきたかのようであった。石室の中央には漆黒の長卓が据えられ、その上に、白灰色の骨を削り出して造られた小さな匣が置かれていた。
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その匣には錠がなかった。代わりに三重の細き鎖が幾重にも巻きつき、それぞれの鎖には、現在のいかなる書にも属さぬ古代の文字が刻まれている。ブダナシャはしばし、それを見つめていた。文字そのものを読めるわけではない。それでも、その一字一字が奇妙な既視感を伴って胸の奥へ沈んでゆく。記憶としてではなく、もっと原始的な感覚として――かつて自分が知っていた何かが、忘却の底からこちらを見返しているようであった。
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白髪の老人は石室の外に留まった。王家の短剣を両手の間に収め、その眼差しだけを静かにブダナシャへ向けている。「三百年前、それをここへ置いたのは、お前自身だ。」老人の声音には、断罪する響きも、慰めようとする気配もなかった。「お前は、いつか自分が忘れてしまった時のために、これに記憶を預けた。そう言った。」ブダナシャは答えず、ゆっくりと長卓へ歩み寄った。匣を前にした瞬間、胸の奥で何かが、ごく微かな音を立てた。
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彼女が指先を鎖へ触れさせると、最初の一条が、誰の手も借りぬまま解け落ちた。続いて第二の鎖が、そして第三の鎖が、古びた金属の音を残して床へ沈んだ。蓋の内側に収められていたものは、宝石でも王印でもなかった。一粒の黒い果実――既に光沢を失い、乾涸びたように見えながら、その無数の細かな亀裂の奥には、なお消え去らぬ紅が脈打っていた。ブダナシャがそれに触れた瞬間、閉ざされていた記憶の底から、幼い自分自身の声が蘇った。
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――これを残してしまったら、私は、ずっと覚えていることになる。
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その声を耳にした途端、彼女の指が止まった。続いて、もう一つの声が重なる。若く、疲弊していながら、不思議なほど静謐な声であった。
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――ならば、その記憶を私に預ければいい。
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その言葉とともに、一人の人影が記憶の彼方へ浮かび上がった。王冠を戴いてはいない。軍装にも身を包んでいない。権威を示すいかなる徽章さえ持たず、ただ灰色の衣を纏った人物が、かつての王宮の長廊に佇んでいる。その顔を見ようとした瞬間、記憶は不自然なほど鮮明に途切れた。そこだけが刃物で切り取られたかのように、何もない。
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ブダナシャはようやく理解した。三百年前に封じられたのは、単なる一つの歴史ではなかった。彼女の記憶そのものから、ある人物を認識するための一片が切り落とされていたのである。戦火も、北門も、焼け落ちた街も、王が選んだ沈黙も――それらはすべて、より深い傷痕を覆い隠すための外殻に過ぎなかった。真に秘されていたのは、彼女自身が、ある者の名を己の生涯から消し去ることを望んだという事実だった。
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黒き果実に亀裂が走った。
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次の瞬間、その内部から細い紅煙が立ち昇り、空中に過去の光景を描き始めた。そこに映ったのは、三百年前のブダナシャだった。彼女は王宮の地下に跪き、その両手には乾ききらぬ血が付着している。眼前には、あの顔の見えない人物が立っていた。幼き日の彼女は泣いていなかった。怒りに震えてもいなかった。ただ一枚の王家の印を床へ置き、長い沈黙の末、静かに言った。
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――私を、帰れなくして。
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その言葉が耳朶を打った瞬間、ブダナシャは目を閉じた。そして、忘却の底に沈められていた記憶が、堰を切った水のようにではなく、むしろ凍結していた大地が一片ずつ崩壊するように、ゆっくりと蘇っていった。
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三百年前、彼女は追放されたのではなかった。誰かに見捨てられたのでもない。王国に対して、自分という存在を存在しなかったことにしてほしいと、自ら願ったのである。名を捨て、記憶を断ち、王宮との繋がりを断絶し、そして、もし再びこの場所へ辿り着くことがあったとしても、自分には決して真実を知らせぬよう、その人物に懇願した。
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なぜなら、当時の彼女には、それが唯一残された方法に思えたからだった。
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真実を保存すれば、生き残った者たちは永遠にあの日の罪を背負い続ける。誰が裏切ったのか、誰が門を閉ざしたのか、誰が炎を放ち、誰が止められなかったのか――そのすべてを明らかにすれば、死者の代わりに生者同士が互いを裁き始める。そう考えた彼女は、自らの記憶さえもまた、同じ墓へ埋めることを選んだのだった。
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しかし、その選択には一つだけ例外が残されていた。
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目の前の骨の匣である。
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「……それでも、私は何かを残したのね。」
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その呟きには、かつての自分への嫌悪も、赦しを乞うような悔恨もなかった。ただ、長き歳月を経てようやく辿り着いた事実を、静かに受け取る者の声音だけがあった。忘却が傷を癒すと信じていたわけではない。あの時の自分には、街を覆った死と、自らの罪と、そして最後まで決めきれなかった一つの選択――そのすべてを同時に抱えるだけの力がなかった。ただ、それだけだった。
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老人は黙って彼女を見守っていた。「これで、お前が去った理由は分かったはずだ。」その言葉に、ブダナシャはすぐには応じなかった。黒い果実を掌に収め、その冷たい表面を親指でなぞる。やがて彼女は、わずかに顔を上げた。
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「いいえ。」
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その声音は静かであった。しかし、その静けさには以前とは異なる重みが宿っていた。「分かったのは、私がなぜ去ろうとしたのかだけ。あの人が誰だったのか――そして、なぜ私の願いを受け入れたのか。それについては、まだ何も分かっていない。」
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老人の瞳に、初めて微かな動揺が走った。
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だが、ブダナシャは既に彼へ背を向けていた。石室の奥へ歩を進める。そこには先ほどまで何もなかったはずの壁があり、その表面に、細く浅い一文字が浮かび上がっている。王家の紋章ではない。悪魔族の印でもない。天使の聖印でもない。
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ただ、一文字。
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――帰。
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ブダナシャはその文字へ手を添えた。
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刹那、石壁の深奥より、低く長い地鳴りが返ってきた。大地そのものが遠い過去から目を覚ますような響きとともに、壁の一部がゆっくりと左右へ裂けてゆく。その奥には、さらに地下へと降りる階段が続いていた。光はない。ただ、遥かな深淵から、一滴、また一滴と、水の落ちる音だけが聞こえてくる。
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そして、その暗闇の奥から――三百年もの間、誰にも届かなかった声が、初めて明瞭に彼女の名を呼んだ。
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「不達那希亞。」
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ブダナシャの足が止まった。
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大悪魔とも呼ばない。
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天使とも呼ばない。
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その声が呼んだのは、彼女が三百年前、自ら葬り去ったはずの、ただ一つの真名だった。
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ブダナシャは振り返らなかった。
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ただ、掌の中に残された黒い果実を静かに握り締め、まだ何者にも見せたことのない表情を浮かべた。
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王座の下に封じられていたものは、過去そのものではなかった。
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それは、かつて彼女自身が未来の自分へ託した、一つの未完の答えだった。
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そして今、その答えを受け取る資格があるのかどうかを問われているのは、三百年前の少女ではない。
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あの日から生き続けてきた、現在の彼女自身なのであった。
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