井底に現れた白き門は、ブダナシャの眼差しに応えるかのように開くことはなかった。それはただ、光さえ届かぬ深淵の中に静かに佇み、あらゆる音と温度とを現世の側へ返すことを拒む、忘却そのものの姿にも似ていた。彼女がそっと門へ手を触れると、指先に伝わったのは石でも木でも金属でもなく、むしろ微かな生命の脈動にも似た、名状しがたい震えであった。
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ブダナシャは、すぐには門を押し開かなかった。長い歳月を生きてきたこの両手に残されたものは、数え切れぬ戦いの痕でも、異形の力の記憶でもなく、もっと遠い場所に置き去りにしたはずの、一人の人間の手の温もりだったからである。三百年という歳月は多くのものを風化させたが、なぜかその温度だけは消し去ることができず、彼女はその理由を知ることを、これまで無意識のうちに避け続けていた。
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老人は階段の上に留まり、何も語らなかった。今度ばかりは、その沈黙こそが最も誠実な答えであることを、ブダナシャも理解していたのである。他者の口から与えられた真実は、ともすれば本人の記憶よりも強固な檻となり得る以上、これより先にあるものを自らの眼で見なければならないと、彼女は静かに覚悟を定めた。
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白き門は、彼女が一歩近づいた瞬間、音もなくその境界をほどいた。門の向こうに広がったのは、三百年前の空であった。そこには戦火もなく、崩壊した城壁もなく、ただ午後の光を浴びた一つの都市があり、市場には商人たちの声が交わされ、馬車は石畳の上を軋ませながら進み、焼きたてのパンの香りが風に乗って流れていた。
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その光景の中に、幼い頃のブダナシャがいた。今より遥かに小さな身体に少し大きすぎる衣服を纏い、木剣を抱えながら街路を駆けてゆく少女の後ろには、彼女を追いかける一人の少年がいた。少年は何かを笑いながら叫び、少女は振り返ってそれに言い返している。その笑声はあまりにも自然で、あまりにも幸福な響きを帯びていたため、ブダナシャは一瞬、自分が見ているものが三百年前に既に失われた都市であることさえ忘れそうになった。
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少年はやがて足を止め、少女の掌へ小さな黒い石片を置いた。その石片は後に骨の匣へ収められることとなった黒き果実と同じ色をしており、少年はそれを渡した後、何かを告げた。しかし、遠い記憶の向こうにあるその声は完全には届かず、聞き取れたのは僅かな断片だけであった。それでも、幼いブダナシャがその言葉を聞いた後、先ほどまでの笑顔を消し、真剣な眼差しで少年を見つめたことだけは、はっきりと分かった。
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景色が変わった。夜の王宮である。燭台の炎が長い廊下を淡い金色に染める中、幼いブダナシャは窓辺に立ち、その背後には先ほどの少年がいた。彼は王冠も軍装も身につけていなかったが、王宮の深奥へ何の咎めもなく立ち入ることができ、衛兵たちも彼の姿を認めると、ただ静かに道を譲った。
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やがて少年は少女の前に膝をつき、彼女と同じ高さまで視線を下ろした。その表情には、子供へ向けるには不思議なほど深い覚悟が宿っていた。「いつか、お前は今日のことを忘れるだろう。私のことも、自分がなぜここを去ったのかも忘れるかもしれない。けれど、その時に誰かが与える答えを、そのまま信じてはいけない――たとえ私が語ったとしても、最後の選択だけは、未来のお前自身へ返さなければならない。」
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その言葉を聞いた瞬間、ブダナシャの胸奥に、長い間閉ざされていた扉が一つ、静かに動いた。彼女はようやく悟ったのである。三百年前の自分は追放されたのではなく、自ら望んで王国から姿を消したのだということを、そして王が彼女を探さなかったのも、彼女を見捨てたからではなく、彼女自身が未来の自分へ選択する権利を残すよう求めていたからなのだということを。
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しかし、記憶はそこで終わらなかった。やがて夜空は炎に染まり、都市の屋根々々から火の手が上がり、北門には誤った命令が下され、逃げ場を失った人々の悲鳴が街路を満たしていった。幼いブダナシャは崩れた石壁の陰に身を隠し、両手で耳を塞いでいたが、その向こう側から、少年が幾度となく彼女の名を呼びながら駆けてくるのが見えた。
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そして、ついに彼は彼女を見つけた。少年は怒鳴ることも、命令することもなく、ただ彼女の前へ手を差し出した。「今、戻りたくないのなら、戻らなくてもいい。ただし、この一度だけは、自分で決めろ。恐怖にお前の代わりをさせてはいけない。」少女は震える手を伸ばし、その手を握った。
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だが、その直後、炎の向こうから放たれた一矢が二人の間を裂いた。少年は咄嗟に少女を突き飛ばし、自らその刃を受けたのである。血が少女の頬へ散り、少年の身体がゆっくりと傾いてゆく。それでも彼は最後まで少女を見つめ、その眼差しから責める色を消さなかった。
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幼いブダナシャは彼の身体を抱き締めた。胸奥から迸った叫びは、もはや人間の声とは呼べぬほど異質なものへ変わり、その瞬間、彼女の内に眠っていた大悪魔の血が、長い封印を破って目を覚ました。やがて赤き炎が都市を覆い、敵も城壁も夜空もすべてを呑み込んでいったが、その先に何が起こったのかだけは、記憶そのものが頑なに彼女へ見せようとしなかった。
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それでも、彼女は一つの事実を見た。少年が倒れる直前、血に濡れた指先で何かを彼女の掌へ押し込んでいたのである。それは黒い果実ではなく、古びた指輪であった。その内側には、三百年の歳月にも削り取られなかった二つの文字が刻まれていた――「帰来」という、あまりにも静かで、あまりにも残酷な言葉であった。
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白き光が砕けた。ブダナシャは再び井底の闇へ立っていたが、今度は何も追いかけようとはしなかった。彼女が恐れていたのは、誰が都市を滅ぼしたのかという答えではない。三百年前、自分へ差し伸べられた手を握った後、それでもなお自分が去ることを選んだ理由を、いつか自ら認めなければならないという事実だった。
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老人の声が遥かな階上から降りてきた。「もう戻ってもいい。これ以上を知ることなく、この場所を去ることも、お前自身の選択だ。」ブダナシャはしばらく沈黙した後、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には以前のような焦燥も、誰かに真実を求める切迫もなかった。ただ、長き年月の果てにようやく一つの記憶を自分自身の手へ取り戻した者だけが持つ、静かな決意があった。
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「けれど、私はもう、あの人の手を思い出してしまった。」その言葉は大仰な誓いではなく、運命へ挑む宣言でもなかった。それはただ、三百年前の自分が誰かと交わした約束を、現在の自分がようやく受け取ったという、遅すぎる認識に過ぎなかった。
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ブダナシャは黒い果実を衣の内へ収め、来た道をゆっくりと上り始めた。老人は追わず、彼女もまた振り返らなかった。ただ、地下深くの白き門だけが、彼女が去った後も完全には閉ざされることなく、細い光を暗闇へ残していた。
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その光は彼女を呼び戻そうとはしなかった。命じることも、導くこともなく、ただ三百年前から続く一つの約束を沈黙の中に保ち続けていたのである。そしてブダナシャは、初めて理解した――帰るべき場所とは、必ずしも失われた故郷そのものではなく、かつて自分が見捨てた人生の続きを、もう一度自分自身の意志で引き受けることなのだと。
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