黒森を離れてから七日目、ブダナシャは荒涼たる原野を歩いていた。十日目の黄昏、雲ひとつない空から、突如として雨が降り始めた。細い雨糸は茜色の夕映えを貫いて垂れ落ちながらも、大地を濡らすことはなかった。一滴一滴の雫は土へ触れる寸前、極めて淡い銀の靄へと変じ、地表すれすれのところに漂い続けたのである。ブダナシャは歩みを止め、遠い空を仰いだ。そのとき彼女は、この土地の底深くに、何かが目覚めようとしていることを初めて感じ取った。それは魔力でもなければ奇跡でもない。あまりにも長く忘却の底へ沈められていた、一つの歴史そのものだった。
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銀霧の彼方から、一人の老人が歩いてきた。古びた黒衣をまとい、武器らしきものは何一つ携えていない。彼はブダナシャから十歩余り離れた場所で立ち止まると、礼節を示すこともなく、ただ静かにその名を口にした。「不達那希亞」。その瞬間、ブダナシャの足が止まった。しかし老人の顔には、勝利を確信した者の表情など微塵もなかった。「恐れる必要はない」と彼は言った。「私はお前を暴くために来たのではない。むしろ、お前が自分だけのものだと思い込んでいた過去が、実は一度たりとも完全には消えていないことを告げるために来たのだ」。
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ブダナシャは答えなかった。ただ老人の袖口に刺繍された古びた紋章を見つめていた。それは黒森の墓地近くに残されていた石刻と、あまりにもよく似ていた。老人は彼女の視線に気づくと、袖を裏返した。そこには、すでに色褪せた王印が刻まれていた。「これは現在のいかなる王国の紋章でもない」。老人は淡々と語った。「三百年前に滅亡したアストラン王朝のものだ。そして、お前の名はあの時代には悪魔の名ではなかった」。ブダナシャはようやく口を開いた。「では、何だったの?」
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老人はすぐには答えなかった。懐から一巻の羊皮紙を取り出し、ブダナシャの前でゆっくりと広げた。そこに描かれていたのは魔物でも戦場でもなかった。古びた一通の契約書であった。その末尾には、確かに「不達那希亞」という署名が残されている。だが、その名の傍らに「大悪魔」の文字はなかった。そこに記されていたのは、すでに歴史から失われた一つの官職――王室直属の「災厄の証人」。ブダナシャはその言葉を長いこと見つめていた。胸の奥に生じたのは恐怖ではなく、むしろ、自分自身について初めて聞かされた異国の物語を読むような、奇妙な異物感だった。
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老人によれば、その役職は英雄でも守護者でもなかった。王朝の統治者たちは、ある種の災厄が勝者によって記録された瞬間、真実そのものが歴史から死ぬことを知っていた。そのため彼らは、軍にも王族にも属さぬ者を一人だけ置いた。戦争、飢饉、虐殺、そして王朝の滅亡に至るまでを、いかなる側にも加担せず、誰一人として罪を軽くすることなく記録する者。それが「災厄の証人」であった。そして三百年前、最後にその職を担っていた者こそ、不達那希亞だったのである。
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羊皮紙を見つめながら、ブダナシャの脳裏に黒森で読んだ手記の断片が蘇った。彼女は自分が失っていたものを、ただ幼少期の記憶だと思っていた。しかし今になって、それだけではないのではないかという疑念が生じ始める。彼女が失ったのは、一度の火災にまつわる記憶だけではない。老人から渡された第二の文書には、すでに地図から消え去った都市と、いかなる現代史にも記録されていない虐殺について記されていた。そして最後の頁には、こう残されていた。「もし不達那希亞がなお生きているのなら、彼女を探してはならない。彼女が記憶しているものは、いかなる王国も後世に知られたいとは願わぬ歴史だからである」。
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彼女は文書を閉じ、老人へ尋ねた。「なぜ、私にこれを話すの?」老人の答えは、驚くほど簡潔だった。「あの死者たちは、三百年も待ち続けている」。ブダナシャはしばらく沈黙し、それから静かに問い返した。「私に、彼らの復讐をしてほしいの?」老人は首を横に振った。「違う。復讐をすれば、また別の誰かが記録されることを待つことになる。私はただ、お前にその消えた都市へ行ってほしい。そして、そこで何が起きたのかを自分自身の眼で確かめてほしい。誰を信じるべきか、誰を憎むべきか、誰を赦すべきか――それを決める権利まで、私が奪うべきではない」。
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老人が去ったあと、ブダナシャは荒野の端に一人で座った。夜は徐々に大地を覆い始め、それでも銀色の靄だけは空中から消えなかった。彼女は初めて、自分が長年探し求めてきた「家」とは、必ずしも自分を待ち続ける一つの住処ではなかったのかもしれないと思った。自分が失ったものは、帰るべき場所そのものではなく、意図的に世界から抹消された自分自身の歴史だったのではないか。もしそうなら、これまで彼女が抱いてきた自己認識のすべては、記憶の欠落した一人の生存者が、その空白の上に築き上げた仮初めの名にすぎない。
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翌朝、ブダナシャはすぐに消えた都市へ向かわなかった。まず近隣の古い墓地を訪れ、老人から渡された二巻の文書を墓碑の間へ広げ、そこに残された死者の名を一つずつ写し始めた。今回は魔術を使わなかった。人ならざる力にも頼らなかった。ただ最も遅く、最も不器用な方法で、墨を含ませた筆を動かし、一つ一つの名を紙の上へ戻していった。最後の一字を書き終えたとき、彼女はふと気づいた。自分が本当に恐れていたのは過去を思い出すことではない。自分が、存在しなかった過去のために生き続けていたと知ることだったのだ。
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しかし筆を置いた瞬間、墓地の最奥から鐘の音が響いた。その音は決して大きくはなかった。それでも地下深くから鳴り渡るように古く、遠い時代の空気をまとっていた。ブダナシャが振り返ると、荒丘の向こうから極めて細い黒煙が立ち昇っている。その煙の中央で、本来なら三百年前に滅び去っているはずの城門が、朝日の中へゆっくりと姿を現していた。彼女はそれが幻なのかどうかを問わなかった。ただ二巻の文書を懐へ収め、その存在してはならない城門へ向かって歩き始めた。
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その背後では、先ほど彼女が書き写した墓碑の間を、ごく淡い風が通り抜けていた。三百年もの沈黙を守ってきた死者たちは、彼女に答えなかった。けれど、その名々もまた、再び忘却へ沈むことはなかった。ブダナシャは初めて、これまでとは異なる帰路へ踏み出したのである。それは一つの場所へ戻る道ではない。かつて確かに自分自身のものでありながら、世界全体によって忘れ去られた一つの歴史へ向かう道だった。そこに待つものが真実なのか、罪の証なのか、それとも「大悪魔」という呼び名よりさらに古い、もう一つの名なのか――彼女自身にも、まだ知る由はなかった。
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