アインハイズフィルの北境には、古来、完全な夜というものがなかった。陽光が退くと、まず紅い月が塩のように白い山稜から昇り、ついで蒼い月が雲の背後に姿を現し、最後に、小さく澄明な黄の月が、太古の神々の置き忘れた金印さながら、天穹の最奥へひそやかに捺された。三重の月光が重なり合う折、瓦も井桁も、涸れ井戸のほとりに咲く名もなき花も、昼とは異なる幽艶な輪郭を帯び、物質とは仮初めの器にすぎず、その本性が光の裂け目から徐々に目覚めてゆくかに見えた。
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その夜、見張人ロヴィアンは西塔で鐘の音を聞いた。だが、市内七基の青銅鐘はいずれも揺れず、鐘を吊るす古木にも風の触れた形跡はない。その響きはさらに遠いところから、地層に埋もれた歳月同士が触れ合い、由来を考証し得ぬ一条の反響を現世へ送り届けたものらしかった。彼が石段を覗き込むと、摩耗した筋の一本一本に淡紅の光が満ち、それは塔を下り、市場と中庭と眠れる者の閉ざした扉を抜け、ついには城外の久しく涸れた月泉へ流れ込んでいた。
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月泉の中央には、一人の旅人が立っていた。術士の好む星章の長衣もまとわず、祭司が血統の証しとする銀杖も携えず、風塵に褪せた灰色の衣を着て、銘のない黒陶の鉢を両手に捧げている。三つの月影は順に鉢底へ落ちたが、その顔を照らすことはなかった。むしろ足もとでは、長年水を失っていた丸石から清冽な雫が滲み、土地があまりにも長く追放されていた名をようやく識別し、慎ましくも厳かに記憶を取り戻したかのようであった。
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ロヴィアンが泉辺へ駆けつけたとき、旅人は未知の古語で月光を数えていた。その言葉には万物を威服させる強圧こそなかったが、音節は法典に比すべき精緻さを備え、一度言葉が途切れるごとに泉水は一寸ずつ昇った。どこから来たのかと問われ、彼は「まだ起きていない昨日から」とのみ答えた。そして陶鉢を傾けると、三色の月華は音なき水流となって亀裂の走る泉眼へ注ぎ、清水が噴き上がる代わりに、銀葉を戴く一本の幼樹が地底から伸び出した。
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樹上には九つの透明な果実が実り、その一つ一つに子供の夢が映っていた。温かく豊かな邸宅を夢見る者、異国の港で渡り鳥を見分ける者、薫草に覆われた丘で白犬を追う者もいる。互いに面識を持たぬ彼らの眉間には、ただ一様に月形の微光が宿っていた。十年前、いずれも身寄りなく、その名を記憶する者すらいない幼子であったが、密かに世界各地へ送り出され、それぞれの家庭で穏やかな暮らしを得たのである。いま、その夢は山海を越え、同じ若樹に懸かっていた。
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旅人は彼らを供物とも、使役すべき従僕とも呼ばなかった。真の精霊は決して呪文に屈するのではない、と彼はロヴィアンに説いた。彼らがある者に近づくのは、その者の生涯になお、経験を分かち合うための余白が残されているからである。時に悪戯をし、時に従順であることは、善悪の証明ではなく、見知らぬ世界と信頼を交換する術を学んでいる徴にすぎない。もし誰かがその親しみを権能へ鋳直そうとすれば、銀樹はただちにすべての果実を取り戻すという。
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その言葉が終わるや、第一の果実がひそやかに裂けた。蝉の翅よりも薄い光が飛び立ち、宙で宛名のない一通の書簡に変じる。そこに記されていたのは、廃劇場と、塵に覆われた王座と、王座の下から海底へ通じる階段の絵だけであった。ロヴィアンは、それが城東の月姫劇場であると見抜いた。閉鎖されて百年を越すその劇場では、最後の俳優が満月の夕べに魔女の舞を演じ、観客や楽師もろとも姿を消し、決して取り外すことのできない緞帳だけを残したと伝えられていた。
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夜明け前、旅人とロヴィアンは劇場へ入った。崩れた門楣の奥にあったのは塵封された客席ではなく、月光に隈なく照らされた浅い海であった。座席は珊瑚のように並び、緋色の緞帳は水中で緩やかに翻りながら、少しも濡れてはいない。舞台中央には半面を仮面で覆った老女が座していた。かつてこの劇場の衣裳を管理していたという彼女は、「二つ目の奇蹟を貪らぬ者」を百三年にわたって待ち続けたのだと語った。その傍らには十二着の衣裳が並び、いずれも失踪者が果たせなかった生涯を一つずつ保存していた。
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老女は一着を持ち去ることを許したが、旅人は黒陶の鉢を床に置き、自分には余分な欲望がないと答えた。彼が訪れたのは遺物を奪うためではなく、十年前この劇場から借り受けた一縷の因縁を返すためであった。その因縁によって九人の棄児は戦乱と飢饉を免れ、彼らを養おうと願う家々へ辿り着いた。しかし、子供たちはすでに成長しつつあり、もはやその運命が、いかなる恩恵にも縛られてはならなかった。老女が長く彼を見つめるうち、仮面の下から嘆息とも微笑ともつかぬ息が漏れ、周囲の浅海は明るい塵へ退いていった。
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旅人は懐から九色の糸を取り出し、一本ずつ断ち切って、その端を舞台板へ埋めた。雷鳴も、宣告も、史官の誇張に値する偉功もなかった。ただ遥かな九つの夢の果実が同時に落ち、ありふれた朝露へ変わった。世界各地で眠りから覚めた子供たちは、彼らを育てた家族を変わらず記憶し、それぞれの気質と才知を保ちながら、もはや召喚の声を聞かず、月から届くいかなる意志にも応える必要がなくなった。彼らはこのとき初めて、自らの未来を余すところなく所有したのである。
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最後の糸が舞台板へ沈むと、劇場の奥から低く明瞭な拍手が響いた。塵を被った王座がひとりでに後退し、海底へ下る階段を露わにする。その下に海水はなく、無数の星辰が逆さに懸かり、天空が大地の胎内に、他者へ見せることのできぬもう一つの相貌を隠しているかのようであった。老女によれば、そこには「始人」が遺した最初の幻像が封じられている。そして何者かがすでに彼らに先んじて侵入し、世に存在するあらゆる可能性を、ただ一つの解答へ削り落とそうとしているという。
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旅人は、いまだ消えきらぬ三重の月影を仰ぎ、ようやく己の来歴を告げた。「私はかつて巫者であり、のちに幻想魔族へ連なった。だが今日の私にとって、名は行いほど重要ではない」。ロヴィアンはそれ以上を問わなかった。その静かな双眸のうちに、過去は根のごとく深く張り、未来は海のごとく遼遠でありながら、現在だけがなお選択のための空白を保つのを見たからである。二人は階を下り、背後では銀葉の幼樹が暁光のなかに新枝を広げ、もはやいかなる生命の帰趨をも予言しなかった。
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市街へ最初の朝光が差し込む頃、人々が知り得たのは、百年涸れていた月泉に水が戻ったことだけであった。花売りは木桶を泉辺へ移し、子供たちは銅杯を手に歪な列をなし、老人たちは水に漂う微かな桂香を訝しげに論じた。昨夜、九つの運命が穏やかに解かれたことを知る者はなく、二人の旅人が地下の星空へ踏み入れたことを見る者もなかった。壮大な奇蹟は碑銘を求めず、借りられていた生涯を本人へ返し終えると、あらゆる称賛の外へ静かに退いたのである。
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(第一卷/第一巻 完)43Please respect copyright.PENANAfs7aZxS01m


