高原を離れたブダナシャは、深い峡谷の底に築かれた一つの都市へ辿り着いた。そこには城壁も門番もなく、都市の名を記した標も存在しなかった。整然と並ぶ家々の扉には銅板が掛けられていたが、刻まれているのは数字だけである。住民たちは互いを名で呼ばず、住所や番号によって呼び交わしていた。そして彼女はほどなく、この都市では誰一人として自分の姓を覚えていないことに気づいた。
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パンを焼いていた老人に尋ねると、彼は自分を「四百二十一号」と名乗った。年齢も職業も住居も覚えている。しかし父親がどのように自分を呼んでいたのか、母親が最期に自分の名を口にしたのか、それだけは思い出せない。さらに奇妙なことに、この都市では姓名を口にすること自体が禁じられているわけではなかった。ただ自分の名を発音しようとすると激しい頭痛に襲われ、見えざる何かが、その音を世界へ戻すことを拒んでいるようだった。
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ブダナシャは都市中央の石段を下り、地下に巨大な文書庫を発見した。そこには鐘も神像もなく、何万もの羊皮紙だけが整然と収められていた。記されているのは法律でも財産でもない。そこに保存されていたのは、住民一人ひとりがかつて持っていた名前だった。管理者によれば、この都市の祖先は、名前が欲望を生み、欲望が差異を生み、差異がやがて争いを生むと考えたという。だからこそ、すべての人間を役割と番号だけで存在させる「無名制度」が作られた。完全な均一性こそが平穏を守ると信じられていたのである。
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ブダナシャはすぐには否定しなかった。保存された姓名録を眺めながら、彼女は一つだけ問い掛けた。「名前が差異を生むというのなら、なぜあなたたちは名前を保存しているのですか」。管理者は長い沈黙の後、それは祖先から受け継いだ命令だからだと答えた。その瞬間、彼女には理解できた。この都市が恐れているのは名前そのものではない。名前の向こう側にある、一人の人間が制度の外側でもなお自分だけの存在を持ち得るという事実なのだ。
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その夜、一人の少女が密かにブダナシャを訪ねた。彼女は自分を「八十六号」と呼んだが、懐から一枚の破れた紙を取り出した。そこには亡くなった祖母の筆跡で、二文字だけが記されていた。少女には、その文字が何を意味するのか分からない。ただそれを見るたび、胸の奥に説明できない温もりが生まれるのだという。ブダナシャは代わりに読み上げようとはしなかった。知りたいのかと尋ねると、少女は頷き、それから怯えるように首を横に振った。自分の名前を知ることが、本当の意味で自分自身の未来を引き受けることになるように思えたからだった。
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ブダナシャは銀の天秤を取り出し、「名を知ること」と「名を知らないこと」を両端に置いた。しかし天秤は微動だにしなかった。彼女は理解した。これは魔術によって答えを決められる問いではない。名前そのものが救済なのでも、束縛なのでもない。本当に重要なのは、人が自分自身をどのように呼ぶかを自ら選ぶ権利なのだ。彼女は天秤をしまい、少女の隣に座った。そして何も決めず、ただ夜が明けるまで共にいた。
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翌朝、都市に異変が起こった。地下文書庫に収められていた姓名録が一斉に燃え始めたのである。管理者は無名制度を破壊しようとする者がいると判断し、都市全体を恐慌へ陥れた。住民には家へ戻るよう命じられ、互いの過去を尋ねることも禁じられた。しかしブダナシャは、火を放った者など存在しないことに気づいた。数百年にわたって姓名を保存してきた魔術そのものが、もはやそれらを支えきれなくなっていたのである。
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彼女は第九対の翼を開いた。時間は地下空間で逆流し始めたが、今回は火災以前まで時を戻さなかった。消滅しようとしている一冊一冊の「存在する時間」だけを延長したのである。続いて第十対の翼が開かれ、無数の名前が淡い光となって都市の空へ浮かび上がった。住民たちは初めて、かつて自分自身に属していた文字と音を目にした。それでも、その名前のどれ一つとして彼らに新しい身分を強制することはなかった。
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泣く者もいた。怒る者もいた。背を向けて立ち去る者もいた。ただ静かに見つめ続ける者もいた。四百二十一号の老人は自分の名前を見つけても、すぐには声にしなかった。ただ指先でその文字を何度もなぞった。八十六号の少女は祖母の残した紙を開き、ようやく自分の名前を知った。その名が、かつて祖母によって幾度となく優しく呼ばれていたことも知った。しかし彼女は別人になったのではない。ただ、自分自身を何と呼ぶのか選べる可能性を一つ得ただけだった。
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都市の管理者は、秩序を取り戻すため姓名録をすべて破壊するようブダナシャに求めた。彼女はそれを拒んだ。そして第十一対の翼を広げ、姓名録を文書庫から解き放った。無数の巻物は空中を舞い、それぞれ本来の持ち主のもとへ帰っていった。ブダナシャは名前を公的な戸籍へ戻さなかった。新たな制度も作らなかった。ただ一つ、「自分の名前を使うかどうかは、その人自身が決めてよい」という規則だけを残した。
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その小さな規則によって、都市には初めて本当の差異が生まれた。祖先の姓を取り戻す者もいれば、名だけを使う者もいる。番号を残す者もいれば、これまで存在しなかった新しい名を自ら作る者もいた。ブダナシャは誰にも口を挟まなかった。自由さえ別の規則によって与えられなければならないのなら、その自由もまた新しい牢獄になってしまうと知っていたからである。
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旅立つ前、少女は都市の外まで彼女を見送りに来た。もう自分を八十六号とは呼ばず、初めて自分自身の名前を口にした。ブダナシャは、その名前が美しいかどうかを評さなかった。ただ、それを知った今、これからどこへ行きたいのかと尋ねた。少女は、祖母がかつて暮らしていた場所を見てみたいと答えた。ブダナシャは微笑み、一枚の羽根を渡した。そして道は自分で選べばいいのだと告げた。
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峡谷を出るとき、ブダナシャは初めて振り返らなかった。あの都市が手に入れたものは、名前そのものではない。「私」と「他者」を区別する権利だったのだ。名前は音にすぎず、身分は記号にすぎない。けれど、人が自らの存在をどのように世界へ示すかを決めることができるという事実こそ、それらの文字が守ろうとしていたものだった。彼女自身もまだ帰る場所を見つけてはいない。世間は彼女を悪魔とも天使とも呼ぶ。それでも今の彼女には、その二つの名さえ、自分が何者であるかを決める必要はないように思えた。
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